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2011年6月11日 (土)

「体」は「頭」の奴隷じゃない

私にとっては、人生の正念場のひとつといえるくらい
大事なフラのイベントを目前に控えています。
そのイベントのためにこの1年近く、
できるかぎりのことをしてきました。

自分なりのトレーニングメニューを作り、
どんなに疲れている日でも、
そのメニューだけは毎日休まず続けてきました。
それに加えて、細かい表現の練習にも時間の許す限り取り組んで、
ひたすらスパルタな意識でがんばってきました。


そして、イベント当日までカウントダウンできるぐらい
差し迫ってきた先日のこと。
いつものように練習しようとしたのですが、
体が全然動きたがりませんでした。
私の体は「もうたくさんだ」と言っていたのです。

頭では「あれれ? どうしたの?
いつもみたいに練習しなくちゃ! 時間ももったいないし」
と張り切っているのですが、体のほうは

「もう、なんにもしたくない。
練習したくない。
家のことも、何にもしたくない。
もう、どうでもいい」


と、かたくなに動こうとしませんでした。ハッとしました。
イベントのことで頭がカーッとなりすぎていて、
体のことをおろそかにしていたんだと気がつきました。


私には、フラを始めた当初から
とても強い願いがありました。
フラの中で、心身を限界まで鍛えてみたかったし、
フラが上達するとは一体どういうことなのか、
この身をもって体験したかった。
その願いをどうしてもかなえたかったので、
今回のイベントに参加表明しました。
「毎日ちょっとずつでもいいから前進したい」、
「進歩したことを実感したい」、
「体についても心についてもいろんな発見をしたい」。
その一心でフラに取り組んできました。


ただ、そういう思いは、いつのまにか
「私」という「頭」だけの執着に変わっていったようでした。
「体」のほうはどんどん負荷をかけられ、無理を強いられ、
そのつど生じるストレスも受け止めなくてはならず、
「頭」のスパルタなやり方に
必死でついていくしかありませんでした。
そして、「頭」の欲求に健気にこたえようとしている「体」に対して、
私は今まで、たいしたご褒美も休息も与えてきませんでした。
「こっちががんばってやってるんだから、
そっちもがんばってついてきてよ」という態度でした。
……こうやって文字にしてみると、
自分という人間の非道ぶりに改めてびっくりします。


「頭」と「体」がバラバラになってしまっている人に、
人の心をほっとさせるような、素敵なフラが踊れるとは思えません。
「体」がさんざん疲れきった段階で、
その当たり前のことをやっと自覚できました。
「体」は「頭」の奴隷ではないし、
道具でもなければ、乗り物でもない。

今の私が感じているのは、
「体」はそれ自体で立派に独立した意思を持っている、ということです。
さらに「体」は、「頭」と対等に渡り合えるものだとも思いました。
いわば「頭」と「体」は、
協力し合ってすばらしいことを体験しようとしている、
仲間であるという位置づけがベストなのだと感じています。

ヨガを通して、そのことを学んだつもりでいましたが、
ヨガで学んだことを全然フラに生かせていませんでした。
いや、そもそも振り返ってみれば、
私はヨガでもまったく同じ道のりをたどっていました。

水野ヨガ学院に通っていたころも、
同じように「頭」のほうばかり盛り上がってしまって、
「体」をどんどん痛めつけて、
結果的に「頭」もショートしてしまいました。
その経験で懲りて、自分の限界が見えて、
ヨガで無理をすることのむなしさを体感することができました。
やりすぎて転んでケガしないとわからない。
それが私という人間の性なのだなあと、しみじみしてしまいます。

でも、
やりすぎるぐらいフラをやりすぎてみたいという好奇心はあったし、
やりすぎることで見えてくる限界を見たいという思いもあったし、
これはこれで、よかったのかもしれません。
完全に燃え尽きる前に、我にかえれてよかったです。
そもそも「本番の前の練習の段階で燃え尽きてどうするんだ」という話ですし。


「頭」と「体」が、最高のチームメイトとして協力していけるよう、
ここからは生活の仕方や心の持ち方、
練習の仕方を見直してみようと思います。
長い長いウォーミングアップを経て、
ここからようやく試合開始! の気持ちでいきます。

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